今考える龍球
先日旅の者さんのブログで新旧のジャンプについて考える記事を見かけた中で、ふとドラゴンボールについて色々考えることが出てきたので、今日はちょっとそれに触れてみようかな、と。
鳥山明作、ドラゴンボール。
もはや紹介するまでもないですよね。
全世界の発行部数が三億部だとか言われる日本漫画の金字塔。
しかし実際この漫画が超S級の面白いマンガだったか、と言われると賛否両論分かれる所だと思います。
では一体どんな点から批判論があるのか?
私が目にしてきた意見を大まかに箇条書きしてみると
●天下一武道会でマジュニアを倒した所で終わるべきだった(悟空大人時代否定論)
●戦闘能力の急激なインフレが有り得ない(能力至上主義否定論)
●ブウ編はいらなかった(無駄な連載引き延ばし否定論)
●長期連載による矛盾点(矛盾イクナイ論)
ざっと挙げるとこんな所と思うのですが実際にアンケートを取れば細かい批判はまだまだあるでしょう。
かくいう私も一時はストーリーの引き延ばし等の理由からドラゴンボールは決して神漫画ではないと考えたことがありました。
しかし連載終了から10年以上経った今、改めて読んでみるとドラゴンボールはやはり五つ星作品だった、と考え改めるようになりました。
私自身何故そのような認識の変化が起こったのか?!
そこを説明する上で、ドラゴンボールの簡単な話の流れを改めて振り返りながら考えてみたいと思います。
~ドラゴンボールの流れ~
【悟空幼少編】
アニメのテーマ曲『摩訶不思議アドベンチャー』と称されるように、開始当初はドラゴンボールを巡る痛快冒険紀行といった感じで、バトルというよりギャグの要素が強い作風でした。
その軽快なギャグからDr.スランプの後継作品と見ても全く違和感はなかったでしょう。
【天下一武闘会~ピッコロ編】
ところが話の本流に天下一武闘会が絡み出してから、途端にバトル的な要素が強くなってきます。
そしてボスらしい風格と凶悪な強さ両方を兼ね備えた敵、ピッコロ大魔王が登場します。
桃白白も残酷無比なキャラでしたがボスと言えるほど手下を従えている訳でもなく、カリスマを備え、強さも桁違いとラスボスらしいラスボスとして登場したキャラとしてはピッコロが初めてだったと思います。
そして
親友クリリンが惨殺される
↓
その仇を討とうにも強すぎて歯が立たない
↓
パワーアップが必須
という闘う為のシリアスな動機と王道のインフレパターンが揃い、バトル漫画としての色がしっかりと出始めたのもこのへんです。
もう少し違う形でパターン化してみます。
人類を滅ぼすことも見据えている圧倒的な強さを持ったボスキャラの登場(時には仲間も殺される)
↓
当然世界を救うために対峙するがまず歯が立たない
↓
早急なパワーアップが必須
それまで作風が変遷していったDBですが、ここで確立された上記のパターンは以降も定着し、多少流れの誤差はあれども幾度もこのインフレパターンが繰り返されることになります。
そう言った意味でドラゴンボールとしての作風がしっかりと固定されていったのがピッコロ編である訳なんですが、それ故に以降繰り返されるパターンがどうしても焼き増しに見えたり、インフレの増長に過ぎないように感じたりする方もいたでしょう。
事実鳥山氏はマジュニア編で終わらせたかったという話もありますし、物語としても念願の天下一武闘会初優勝という形で区切りを付ければスッキリしています。
以降の話は焼き増しに過ぎないから、どうしても色褪せて見えるからこそ
「ピッコロ編(マジュニア編)で終わるべきだった」
という意見も飛び出すのかな、と。
しかし後に来るラディッツ編~ブウ編は本当にパワーインフレがただ繰り返された焼き増しに過ぎないパートだったのか?
その疑問を踏まえた上で、次へ。
【ラディツ~ベジータ編】
ここらへんから連載も長期化してきたこともあって、ドラゴンボールもさしずめ第二部に入ったような変化が起こります。
それが、悟空の息子、悟飯の登場です。
無論、明確に作中でも第二部と公表されていた訳ではありません。
しかしラディッツ編~ベジータ編、さらには最後のブウ編までは全て主役悟空の後継者として、新たに悟飯が次の主役になるまでの成長を描くパートに見て取れます。
まずこのラディッツ編~ベジータ編では悟飯の戦士としての目覚めを描いています。
【ナメック星編】
引き続き悟飯はクリリンと共に闘うことで、悟空やピッコロという指導者を欠きながらも戦士として急速に自立していく様子が伺えます。
ここで少し話を脱線します。
悟飯以外に作品全体として見てもこのナメック星編は
●超サイヤ人という存在によってサイヤ人の血統の決着
●ドラゴンボールや神様(ピッコロ)のルーツの解明
●原点回帰でもあるドラゴンボール探し
●従来の地球という範疇ではない宇宙レベルでのラスボス
という点から、表題「ドラゴンボール」という作品の集大成とも言えるパートだったと思います。
仮にブウ編より先に完結させるのなら、上記の理由からピッコロ編よりこのナメック星編の方がより美しい終わり方じゃないか、とも言えます。
しかしここで悟飯という存在に話を戻します。
悟飯は地球時代からは戦闘力、精神的にも別人のように成長しましたが、まだ主役を張るには頼りない面もあり、しかも能力至上主義が根付いてしまったDBの世界で現主役悟空が超サイヤ人になってしまったことで戦闘力も大きく水を開けられ、戦闘力面でも主役=最強という形に悟飯は遠く及ばないことになります。
つまり、ナメック星編は
●ドラゴンボールという作品全体としてはここで完結させるのが綺麗にまとまる。
●ナメック星編をドラゴンボールの第2部という枠組みとして見るならば、第2の主人公として悟飯は未だ成長過程であり主人公にふさわしい存在ではない。
という二つの側面があると言えるでしょう。
結果、当時人気絶頂に加えドラゴンボール自体が既に一大産業となっていた社会の影響もあって、ドラゴンボールはまだ完結に至らず悟飯のストーリーも続いていくことになります。
【セル編】
さて、ナメック星編で完結できなかったドラゴンボールですが、このまま悟空が新たなボスを倒し最強であり続けるのであれば、単にパワーインフレを繰り返すだけで話としても余り進展がありませんしマンネリ感が否めません。
しかし悟飯という存在にスポットを当てていくと、ラディッツ編から続く彼の成長のストーリーが完成されるのがこのセル編です。
最終決戦で悟飯は悟空の強さをついに超え、能力面でも精神面でも一人前になることによって、名実共に主人公の座を譲り受けることになります。
確かにセルに油断し、過信しすぎる点は主人公を張るには完璧とは言い難いかったですが、それはラストの親子二人のかめはめ波でセルを倒すことで、悟空が主人公としての最後の後押しをするという形で上手く決着しています。
事実セルを倒した後、悟空は生き返ることはできましたがそれでは主人公が完全に交代したとは読者も受け止めにくい筈です。
よって悟空が現世を去るという形で新たな主役悟飯が正式に誕生することになりました。
【魔人ブウ編】
さてこうやって見ていくと、新旧主人公の共演で幕を閉めた前のセル編で完結させてしまうのも一見綺麗な締め方です。
しかしそれでは、肝心の新主役としての悟飯の活躍をほとんど見ぬまま終わってしまうことになります。
つまり後から見て蛇足とも思えるこのブウ編にも、ラディツ編より続く悟飯の物語として考えると立派な存在意義があります。
しかしここで一つ問題が。
それはそれまでドラゴンボールという作品を応援してきた者にとっては、孫悟空という存在は余りに偉大すぎたということです。
つまり悟空こそドラゴンボールの象徴であり、悟空が最強ではない、強いては主人公が悟空じゃないドラゴンボールはドラゴンボールじゃない、と感じるファンも少なくなかったでしょう。(かくいう私もその一人です)
かつて初代マクロスでは一条輝と結ばれる役として正ヒロインの早瀬未沙よりリン・ミンメイを望むファンの声が大きかったらしいですが、結局当時のスタッフは正着通り一条輝と早瀬未紗をゴールインさせる選択をしたと聞きます。
しかし編集部と鳥山氏も当時の『主人公孫悟空復活熱望』の声をやはり無視できなかったんでしょう。
悟空は一日だけ現世に蘇ったことで話の本流に復帰、中盤からは再び主役のような扱いになってしまいます。
さて、この世論の影響からか途中で主役が入れ替わってしまうというパターン。
ファンの声をしっかり反映してファンとしては嬉しい展開である反面、世論の人気主体でストーリーをいじっていくと下手すれば某種死のように話そのものも破綻してしまう危険性があります。
しかし実はここからが評判の悪い魔人ブウ編を私が高く評価している所なんですが、魔人ブウ編が他のパートと明らかに異なるポイントが幾つかあります。
●二人の主人公
上では主役が入れ替わったと書きましたが、実際は完全に悟空主体の展開ではなく悟空は瞬間移動などを駆使して情勢を影からバックアップし、肝心のパワーアップに専念する役は悟飯、と今まで悟空一人でこなしていた主人公の役割を二人に分担した、といった具合です。
つまり実質、主人公が二人存在する展開と見れます。
その結果、
●最強の地位とブウを倒す役の分離
『ドラゴンボール主人公の役割は、一つはボスを倒すこと、もう一つは最強であること』
これが今までのDBの単純かつ不動の公式だったんですが、その形が崩れたのが魔人ブウ編の一番大きなポイントだと思います。
悟飯は界王神の力で一時は魔人ブウをも圧倒するほどの『最強』のパワーを手に入れます。(ただ原作とアニメ版では最強の扱いが若干異なっているそうですが)
しかし実際に元気玉で『魔人ブウを倒す』のは悟空です。
ここで再び整理します。
魔人ブウ編は当初は悟飯が主人公で始まりました。
しかし悟空人気の影響は大きく、途中からは悟空主導で話は進みます。
つまり主人公という視点では
●ドラゴンボールという作品的にはすでにセル編で主人公 は悟飯に交代している→「作品的主人公」
●しかしファンは魔人ブウ編も悟空が主人公の展開を望む声が強かった→「ファン的主人公」
という二つの方向性があります。
そして
●最強の座に座るのは悟飯→「作品的決着」
●魔人ブウを倒すのは悟空→「ファン的決着」
と、セル編で主役の座に座った悟飯を最強の存在として立たせることで長い目で見た上でも作品的にも破綻せず、悟空がブウを倒すことでファンの要望にも最後まで応えきったことで、作品的にもファン的にも見事に収束点を見るのが魔人ブウ編の決着の付け方なのです。
私が魔人ブウ編を高く評価しているのも正にこの「ファンの声にも応えた上で、作品としても破綻していない」点です。
付け加えるなら、最後の決着を付けたのが元気玉であるのも魔人ブウ編だけであり、最強の座が重要だった過剰な能力至上のパターンを最後で覆し、一人一人の力を結集することで地球を救うという文字通り大団円のラストに仕上げているのも特筆すべき点でしょう。
さて、ここまで話の流れを振り返っていきましたが、最後にもう一度まとめてみたいと思います。
鳥山明作、ドラゴンボール。
もはや紹介するまでもないですよね。
全世界の発行部数が三億部だとか言われる日本漫画の金字塔。
しかし実際この漫画が超S級の面白いマンガだったか、と言われると賛否両論分かれる所だと思います。
では一体どんな点から批判論があるのか?
私が目にしてきた意見を大まかに箇条書きしてみると
●天下一武道会でマジュニアを倒した所で終わるべきだった(悟空大人時代否定論)
●戦闘能力の急激なインフレが有り得ない(能力至上主義否定論)
●ブウ編はいらなかった(無駄な連載引き延ばし否定論)
●長期連載による矛盾点(矛盾イクナイ論)
ざっと挙げるとこんな所と思うのですが実際にアンケートを取れば細かい批判はまだまだあるでしょう。
かくいう私も一時はストーリーの引き延ばし等の理由からドラゴンボールは決して神漫画ではないと考えたことがありました。
しかし連載終了から10年以上経った今、改めて読んでみるとドラゴンボールはやはり五つ星作品だった、と考え改めるようになりました。
私自身何故そのような認識の変化が起こったのか?!
そこを説明する上で、ドラゴンボールの簡単な話の流れを改めて振り返りながら考えてみたいと思います。
~ドラゴンボールの流れ~
【悟空幼少編】
アニメのテーマ曲『摩訶不思議アドベンチャー』と称されるように、開始当初はドラゴンボールを巡る痛快冒険紀行といった感じで、バトルというよりギャグの要素が強い作風でした。
その軽快なギャグからDr.スランプの後継作品と見ても全く違和感はなかったでしょう。
【天下一武闘会~ピッコロ編】
ところが話の本流に天下一武闘会が絡み出してから、途端にバトル的な要素が強くなってきます。
そしてボスらしい風格と凶悪な強さ両方を兼ね備えた敵、ピッコロ大魔王が登場します。
桃白白も残酷無比なキャラでしたがボスと言えるほど手下を従えている訳でもなく、カリスマを備え、強さも桁違いとラスボスらしいラスボスとして登場したキャラとしてはピッコロが初めてだったと思います。
そして
親友クリリンが惨殺される
↓
その仇を討とうにも強すぎて歯が立たない
↓
パワーアップが必須
という闘う為のシリアスな動機と王道のインフレパターンが揃い、バトル漫画としての色がしっかりと出始めたのもこのへんです。
もう少し違う形でパターン化してみます。
人類を滅ぼすことも見据えている圧倒的な強さを持ったボスキャラの登場(時には仲間も殺される)
↓
当然世界を救うために対峙するがまず歯が立たない
↓
早急なパワーアップが必須
それまで作風が変遷していったDBですが、ここで確立された上記のパターンは以降も定着し、多少流れの誤差はあれども幾度もこのインフレパターンが繰り返されることになります。
そう言った意味でドラゴンボールとしての作風がしっかりと固定されていったのがピッコロ編である訳なんですが、それ故に以降繰り返されるパターンがどうしても焼き増しに見えたり、インフレの増長に過ぎないように感じたりする方もいたでしょう。
事実鳥山氏はマジュニア編で終わらせたかったという話もありますし、物語としても念願の天下一武闘会初優勝という形で区切りを付ければスッキリしています。
以降の話は焼き増しに過ぎないから、どうしても色褪せて見えるからこそ
「ピッコロ編(マジュニア編)で終わるべきだった」
という意見も飛び出すのかな、と。
しかし後に来るラディッツ編~ブウ編は本当にパワーインフレがただ繰り返された焼き増しに過ぎないパートだったのか?
その疑問を踏まえた上で、次へ。
【ラディツ~ベジータ編】
ここらへんから連載も長期化してきたこともあって、ドラゴンボールもさしずめ第二部に入ったような変化が起こります。
それが、悟空の息子、悟飯の登場です。
無論、明確に作中でも第二部と公表されていた訳ではありません。
しかしラディッツ編~ベジータ編、さらには最後のブウ編までは全て主役悟空の後継者として、新たに悟飯が次の主役になるまでの成長を描くパートに見て取れます。
まずこのラディッツ編~ベジータ編では悟飯の戦士としての目覚めを描いています。
【ナメック星編】
引き続き悟飯はクリリンと共に闘うことで、悟空やピッコロという指導者を欠きながらも戦士として急速に自立していく様子が伺えます。
ここで少し話を脱線します。
悟飯以外に作品全体として見てもこのナメック星編は
●超サイヤ人という存在によってサイヤ人の血統の決着
●ドラゴンボールや神様(ピッコロ)のルーツの解明
●原点回帰でもあるドラゴンボール探し
●従来の地球という範疇ではない宇宙レベルでのラスボス
という点から、表題「ドラゴンボール」という作品の集大成とも言えるパートだったと思います。
仮にブウ編より先に完結させるのなら、上記の理由からピッコロ編よりこのナメック星編の方がより美しい終わり方じゃないか、とも言えます。
しかしここで悟飯という存在に話を戻します。
悟飯は地球時代からは戦闘力、精神的にも別人のように成長しましたが、まだ主役を張るには頼りない面もあり、しかも能力至上主義が根付いてしまったDBの世界で現主役悟空が超サイヤ人になってしまったことで戦闘力も大きく水を開けられ、戦闘力面でも主役=最強という形に悟飯は遠く及ばないことになります。
つまり、ナメック星編は
●ドラゴンボールという作品全体としてはここで完結させるのが綺麗にまとまる。
●ナメック星編をドラゴンボールの第2部という枠組みとして見るならば、第2の主人公として悟飯は未だ成長過程であり主人公にふさわしい存在ではない。
という二つの側面があると言えるでしょう。
結果、当時人気絶頂に加えドラゴンボール自体が既に一大産業となっていた社会の影響もあって、ドラゴンボールはまだ完結に至らず悟飯のストーリーも続いていくことになります。
【セル編】
さて、ナメック星編で完結できなかったドラゴンボールですが、このまま悟空が新たなボスを倒し最強であり続けるのであれば、単にパワーインフレを繰り返すだけで話としても余り進展がありませんしマンネリ感が否めません。
しかし悟飯という存在にスポットを当てていくと、ラディッツ編から続く彼の成長のストーリーが完成されるのがこのセル編です。
最終決戦で悟飯は悟空の強さをついに超え、能力面でも精神面でも一人前になることによって、名実共に主人公の座を譲り受けることになります。
確かにセルに油断し、過信しすぎる点は主人公を張るには完璧とは言い難いかったですが、それはラストの親子二人のかめはめ波でセルを倒すことで、悟空が主人公としての最後の後押しをするという形で上手く決着しています。
事実セルを倒した後、悟空は生き返ることはできましたがそれでは主人公が完全に交代したとは読者も受け止めにくい筈です。
よって悟空が現世を去るという形で新たな主役悟飯が正式に誕生することになりました。
【魔人ブウ編】
さてこうやって見ていくと、新旧主人公の共演で幕を閉めた前のセル編で完結させてしまうのも一見綺麗な締め方です。
しかしそれでは、肝心の新主役としての悟飯の活躍をほとんど見ぬまま終わってしまうことになります。
つまり後から見て蛇足とも思えるこのブウ編にも、ラディツ編より続く悟飯の物語として考えると立派な存在意義があります。
しかしここで一つ問題が。
それはそれまでドラゴンボールという作品を応援してきた者にとっては、孫悟空という存在は余りに偉大すぎたということです。
つまり悟空こそドラゴンボールの象徴であり、悟空が最強ではない、強いては主人公が悟空じゃないドラゴンボールはドラゴンボールじゃない、と感じるファンも少なくなかったでしょう。(かくいう私もその一人です)
かつて初代マクロスでは一条輝と結ばれる役として正ヒロインの早瀬未沙よりリン・ミンメイを望むファンの声が大きかったらしいですが、結局当時のスタッフは正着通り一条輝と早瀬未紗をゴールインさせる選択をしたと聞きます。
しかし編集部と鳥山氏も当時の『主人公孫悟空復活熱望』の声をやはり無視できなかったんでしょう。
悟空は一日だけ現世に蘇ったことで話の本流に復帰、中盤からは再び主役のような扱いになってしまいます。
さて、この世論の影響からか途中で主役が入れ替わってしまうというパターン。
ファンの声をしっかり反映してファンとしては嬉しい展開である反面、世論の人気主体でストーリーをいじっていくと下手すれば某種死のように話そのものも破綻してしまう危険性があります。
しかし実はここからが評判の悪い魔人ブウ編を私が高く評価している所なんですが、魔人ブウ編が他のパートと明らかに異なるポイントが幾つかあります。
●二人の主人公
上では主役が入れ替わったと書きましたが、実際は完全に悟空主体の展開ではなく悟空は瞬間移動などを駆使して情勢を影からバックアップし、肝心のパワーアップに専念する役は悟飯、と今まで悟空一人でこなしていた主人公の役割を二人に分担した、といった具合です。
つまり実質、主人公が二人存在する展開と見れます。
その結果、
●最強の地位とブウを倒す役の分離
『ドラゴンボール主人公の役割は、一つはボスを倒すこと、もう一つは最強であること』
これが今までのDBの単純かつ不動の公式だったんですが、その形が崩れたのが魔人ブウ編の一番大きなポイントだと思います。
悟飯は界王神の力で一時は魔人ブウをも圧倒するほどの『最強』のパワーを手に入れます。(ただ原作とアニメ版では最強の扱いが若干異なっているそうですが)
しかし実際に元気玉で『魔人ブウを倒す』のは悟空です。
ここで再び整理します。
魔人ブウ編は当初は悟飯が主人公で始まりました。
しかし悟空人気の影響は大きく、途中からは悟空主導で話は進みます。
つまり主人公という視点では
●ドラゴンボールという作品的にはすでにセル編で主人公 は悟飯に交代している→「作品的主人公」
●しかしファンは魔人ブウ編も悟空が主人公の展開を望む声が強かった→「ファン的主人公」
という二つの方向性があります。
そして
●最強の座に座るのは悟飯→「作品的決着」
●魔人ブウを倒すのは悟空→「ファン的決着」
と、セル編で主役の座に座った悟飯を最強の存在として立たせることで長い目で見た上でも作品的にも破綻せず、悟空がブウを倒すことでファンの要望にも最後まで応えきったことで、作品的にもファン的にも見事に収束点を見るのが魔人ブウ編の決着の付け方なのです。
私が魔人ブウ編を高く評価しているのも正にこの「ファンの声にも応えた上で、作品としても破綻していない」点です。
付け加えるなら、最後の決着を付けたのが元気玉であるのも魔人ブウ編だけであり、最強の座が重要だった過剰な能力至上のパターンを最後で覆し、一人一人の力を結集することで地球を救うという文字通り大団円のラストに仕上げているのも特筆すべき点でしょう。
さて、ここまで話の流れを振り返っていきましたが、最後にもう一度まとめてみたいと思います。
~私がドラゴンボールは゛名作゛だと思う理由~
まずは名作とは認められないような批判されていたポイントに対して。
●マジュニア編で終わらせるべきだったという意見に対して
実際にドラゴンボールという作品のテーマにふさわしい展開ならば、マジュニア編よりナメック星編で終わる方がより美しいとも言える。
つまりマジュニア編より後に再度、作品としてピークを迎えることからマジュニア編で無理に切る必要はない。
●過剰なインフレ、能力至上主義に対して
ただ漫然とインフレを繰り返しバトルを追求していた訳ではなく、そこで「孫悟飯」に焦点を移すとラディッツ編以降もインフレの裏に彼の人間としての、強いては新主役としての成長がしっかりと描かれており、それが単純なマンネリ化を防いでいる。
(人間的にある程度成熟してしまっている悟空を常に主役に置き、彼一人がパワーインフレを繰り返していたならば能力だけの(能力至上)漫画としてマンネリを引き起こしていた可能性がある。)
●魔人ブウ編はいらなかったという意見に対して
同じように「孫悟飯」という存在で考えるならばラディッツ編~セル編ラストまでの長く描かれてきた新主役への布石からセル編で終わらせる方が逆に不自然であり、魔人ブウ編にも存在意義がある。
それに加え、それまでの能力至上の流れを魔人ブウを最後は元気玉という方法で倒すことで、『能力だけが全てではない、地球を救う為には一人一人が力を合わすことにこそ意味がある』というラストを伝えることでドラゴンボールがただ能力に支配されただけの漫画ではない、というメッセージになっている。
●長期連載による矛盾点
Dr.スランプやドラゴンボールの後に作られたネコマジンZから見られるように、鳥山氏自体の作風はあくまでギャグ路線であり、緻密に最後まで計算されたリアルな作風ではない為、細かい矛盾は生まれてもおかしくなく、元はギャク漫画だったDBの矛盾点に果たして批判を向けるべきなのか疑問である。
また、本人が本来はマジュニア編で終わらせたかったと漏らしていることからも、連載が作者の意思を超える所で長期に渡ったことにより以降に生まれた矛盾点は許容範囲で収まると考えられる。
以上が指摘されていた批判意見に対する私なりの考え方です。
ドラゴンボール連載時は、やはり単純に憧れていた孫悟空という存在にしか目を向けていなかったせいで気付けなかったんですが、時が経ち、息子の悟飯に注目して読んでいくと、彼が登場したラディッツ編以降はどのパートにも今まで見えてなかったような゛意味゛であり、゛良さ゛が発見できたのが私が「ドラゴンボールはやはり名作だった」と感じた一番の理由です。
特に私もどちらかと言えばマンネリのせいか否定的な目で見ていた最後の魔人ブウ編は、悟空と悟飯という主役扱いの二人の存在に話自体が影響されながらも、最後は二人のキャラを立たせつつ、大団円で締めた終わり方が素晴らしいと思えるようになりました。
終わり良ければ全て良し。
ファンの声に左右されながらも、決してインフレによる能力だけの漫画ではないという裏付けにもなったクライマックスは高い完成度だったと思いますし、それがドラゴンボールという作品全体の底を上げているのかな、と。
勿論思い出がこの作品を美化させている、という点はあるでしょう。
しかしその懐古視点を出来るだけさっ引いて見たとしても、いつ読んでもワクワクさせられてしまう。
そんな漫画はなかなか無いんじゃないでしょうか。
改めて思います。ドラゴンボールは本当に良くできた漫画だな、と。
まずは名作とは認められないような批判されていたポイントに対して。
●マジュニア編で終わらせるべきだったという意見に対して
実際にドラゴンボールという作品のテーマにふさわしい展開ならば、マジュニア編よりナメック星編で終わる方がより美しいとも言える。
つまりマジュニア編より後に再度、作品としてピークを迎えることからマジュニア編で無理に切る必要はない。
●過剰なインフレ、能力至上主義に対して
ただ漫然とインフレを繰り返しバトルを追求していた訳ではなく、そこで「孫悟飯」に焦点を移すとラディッツ編以降もインフレの裏に彼の人間としての、強いては新主役としての成長がしっかりと描かれており、それが単純なマンネリ化を防いでいる。
(人間的にある程度成熟してしまっている悟空を常に主役に置き、彼一人がパワーインフレを繰り返していたならば能力だけの(能力至上)漫画としてマンネリを引き起こしていた可能性がある。)
●魔人ブウ編はいらなかったという意見に対して
同じように「孫悟飯」という存在で考えるならばラディッツ編~セル編ラストまでの長く描かれてきた新主役への布石からセル編で終わらせる方が逆に不自然であり、魔人ブウ編にも存在意義がある。
それに加え、それまでの能力至上の流れを魔人ブウを最後は元気玉という方法で倒すことで、『能力だけが全てではない、地球を救う為には一人一人が力を合わすことにこそ意味がある』というラストを伝えることでドラゴンボールがただ能力に支配されただけの漫画ではない、というメッセージになっている。
●長期連載による矛盾点
Dr.スランプやドラゴンボールの後に作られたネコマジンZから見られるように、鳥山氏自体の作風はあくまでギャグ路線であり、緻密に最後まで計算されたリアルな作風ではない為、細かい矛盾は生まれてもおかしくなく、元はギャク漫画だったDBの矛盾点に果たして批判を向けるべきなのか疑問である。
また、本人が本来はマジュニア編で終わらせたかったと漏らしていることからも、連載が作者の意思を超える所で長期に渡ったことにより以降に生まれた矛盾点は許容範囲で収まると考えられる。
以上が指摘されていた批判意見に対する私なりの考え方です。
ドラゴンボール連載時は、やはり単純に憧れていた孫悟空という存在にしか目を向けていなかったせいで気付けなかったんですが、時が経ち、息子の悟飯に注目して読んでいくと、彼が登場したラディッツ編以降はどのパートにも今まで見えてなかったような゛意味゛であり、゛良さ゛が発見できたのが私が「ドラゴンボールはやはり名作だった」と感じた一番の理由です。
特に私もどちらかと言えばマンネリのせいか否定的な目で見ていた最後の魔人ブウ編は、悟空と悟飯という主役扱いの二人の存在に話自体が影響されながらも、最後は二人のキャラを立たせつつ、大団円で締めた終わり方が素晴らしいと思えるようになりました。
終わり良ければ全て良し。
ファンの声に左右されながらも、決してインフレによる能力だけの漫画ではないという裏付けにもなったクライマックスは高い完成度だったと思いますし、それがドラゴンボールという作品全体の底を上げているのかな、と。
勿論思い出がこの作品を美化させている、という点はあるでしょう。
しかしその懐古視点を出来るだけさっ引いて見たとしても、いつ読んでもワクワクさせられてしまう。
そんな漫画はなかなか無いんじゃないでしょうか。
改めて思います。ドラゴンボールは本当に良くできた漫画だな、と。
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