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今考える龍球

先日旅の者さんのブログで新旧のジャンプについて考える記事を見かけた中で、ふとドラゴンボールについて色々考えることが出てきたので、今日はちょっとそれに触れてみようかな、と。

鳥山明作、ドラゴンボール。

もはや紹介するまでもないですよね。

全世界の発行部数が三億部だとか言われる日本漫画の金字塔。

しかし実際この漫画が超S級の面白いマンガだったか、と言われると賛否両論分かれる所だと思います。

では一体どんな点から批判論があるのか?
私が目にしてきた意見を大まかに箇条書きしてみると
●天下一武道会でマジュニアを倒した所で終わるべきだった(悟空大人時代否定論)
●戦闘能力の急激なインフレが有り得ない(能力至上主義否定論)
●ブウ編はいらなかった(無駄な連載引き延ばし否定論)
●長期連載による矛盾点(矛盾イクナイ論)
ざっと挙げるとこんな所と思うのですが実際にアンケートを取れば細かい批判はまだまだあるでしょう。

かくいう私も一時はストーリーの引き延ばし等の理由からドラゴンボールは決して神漫画ではないと考えたことがありました。

しかし連載終了から10年以上経った今、改めて読んでみるとドラゴンボールはやはり五つ星作品だった、と考え改めるようになりました。

私自身何故そのような認識の変化が起こったのか?!

そこを説明する上で、ドラゴンボールの簡単な話の流れを改めて振り返りながら考えてみたいと思います。

~ドラゴンボールの流れ~

【悟空幼少編】
アニメのテーマ曲『摩訶不思議アドベンチャー』と称されるように、開始当初はドラゴンボールを巡る痛快冒険紀行といった感じで、バトルというよりギャグの要素が強い作風でした。
その軽快なギャグからDr.スランプの後継作品と見ても全く違和感はなかったでしょう。

【天下一武闘会~ピッコロ編】
ところが話の本流に天下一武闘会が絡み出してから、途端にバトル的な要素が強くなってきます。

そしてボスらしい風格と凶悪な強さ両方を兼ね備えた敵、ピッコロ大魔王が登場します。

桃白白も残酷無比なキャラでしたがボスと言えるほど手下を従えている訳でもなく、カリスマを備え、強さも桁違いとラスボスらしいラスボスとして登場したキャラとしてはピッコロが初めてだったと思います。
そして

親友クリリンが惨殺される

その仇を討とうにも強すぎて歯が立たない

パワーアップが必須

という闘う為のシリアスな動機と王道のインフレパターンが揃い、バトル漫画としての色がしっかりと出始めたのもこのへんです。

もう少し違う形でパターン化してみます。

人類を滅ぼすことも見据えている圧倒的な強さを持ったボスキャラの登場(時には仲間も殺される)

当然世界を救うために対峙するがまず歯が立たない

早急なパワーアップが必須

それまで作風が変遷していったDBですが、ここで確立された上記のパターンは以降も定着し、多少流れの誤差はあれども幾度もこのインフレパターンが繰り返されることになります。

そう言った意味でドラゴンボールとしての作風がしっかりと固定されていったのがピッコロ編である訳なんですが、それ故に以降繰り返されるパターンがどうしても焼き増しに見えたり、インフレの増長に過ぎないように感じたりする方もいたでしょう。

事実鳥山氏はマジュニア編で終わらせたかったという話もありますし、物語としても念願の天下一武闘会初優勝という形で区切りを付ければスッキリしています。

以降の話は焼き増しに過ぎないから、どうしても色褪せて見えるからこそ
「ピッコロ編(マジュニア編)で終わるべきだった」
という意見も飛び出すのかな、と。

しかし後に来るラディッツ編~ブウ編は本当にパワーインフレがただ繰り返された焼き増しに過ぎないパートだったのか?

その疑問を踏まえた上で、次へ。

【ラディツ~ベジータ編】
ここらへんから連載も長期化してきたこともあって、ドラゴンボールもさしずめ第二部に入ったような変化が起こります。
それが、悟空の息子、悟飯の登場です。

無論、明確に作中でも第二部と公表されていた訳ではありません。
しかしラディッツ編~ベジータ編、さらには最後のブウ編までは全て主役悟空の後継者として、新たに悟飯が次の主役になるまでの成長を描くパートに見て取れます。

まずこのラディッツ編~ベジータ編では悟飯の戦士としての目覚めを描いています。

【ナメック星編】
引き続き悟飯はクリリンと共に闘うことで、悟空やピッコロという指導者を欠きながらも戦士として急速に自立していく様子が伺えます。

ここで少し話を脱線します。
悟飯以外に作品全体として見てもこのナメック星編は
●超サイヤ人という存在によってサイヤ人の血統の決着
●ドラゴンボールや神様(ピッコロ)のルーツの解明
●原点回帰でもあるドラゴンボール探し
●従来の地球という範疇ではない宇宙レベルでのラスボス
という点から、表題「ドラゴンボール」という作品の集大成とも言えるパートだったと思います。

仮にブウ編より先に完結させるのなら、上記の理由からピッコロ編よりこのナメック星編の方がより美しい終わり方じゃないか、とも言えます。

しかしここで悟飯という存在に話を戻します。

悟飯は地球時代からは戦闘力、精神的にも別人のように成長しましたが、まだ主役を張るには頼りない面もあり、しかも能力至上主義が根付いてしまったDBの世界で現主役悟空が超サイヤ人になってしまったことで戦闘力も大きく水を開けられ、戦闘力面でも主役=最強という形に悟飯は遠く及ばないことになります。

つまり、ナメック星編は
●ドラゴンボールという作品全体としてはここで完結させるのが綺麗にまとまる。
●ナメック星編をドラゴンボールの第2部という枠組みとして見るならば、第2の主人公として悟飯は未だ成長過程であり主人公にふさわしい存在ではない。

という二つの側面があると言えるでしょう。

結果、当時人気絶頂に加えドラゴンボール自体が既に一大産業となっていた社会の影響もあって、ドラゴンボールはまだ完結に至らず悟飯のストーリーも続いていくことになります。

【セル編】
さて、ナメック星編で完結できなかったドラゴンボールですが、このまま悟空が新たなボスを倒し最強であり続けるのであれば、単にパワーインフレを繰り返すだけで話としても余り進展がありませんしマンネリ感が否めません。

しかし悟飯という存在にスポットを当てていくと、ラディッツ編から続く彼の成長のストーリーが完成されるのがこのセル編です。

最終決戦で悟飯は悟空の強さをついに超え、能力面でも精神面でも一人前になることによって、名実共に主人公の座を譲り受けることになります。

確かにセルに油断し、過信しすぎる点は主人公を張るには完璧とは言い難いかったですが、それはラストの親子二人のかめはめ波でセルを倒すことで、悟空が主人公としての最後の後押しをするという形で上手く決着しています。

事実セルを倒した後、悟空は生き返ることはできましたがそれでは主人公が完全に交代したとは読者も受け止めにくい筈です。

よって悟空が現世を去るという形で新たな主役悟飯が正式に誕生することになりました。

【魔人ブウ編】
さてこうやって見ていくと、新旧主人公の共演で幕を閉めた前のセル編で完結させてしまうのも一見綺麗な締め方です。

しかしそれでは、肝心の新主役としての悟飯の活躍をほとんど見ぬまま終わってしまうことになります。

つまり後から見て蛇足とも思えるこのブウ編にも、ラディツ編より続く悟飯の物語として考えると立派な存在意義があります。

しかしここで一つ問題が。

それはそれまでドラゴンボールという作品を応援してきた者にとっては、孫悟空という存在は余りに偉大すぎたということです。
つまり悟空こそドラゴンボールの象徴であり、悟空が最強ではない、強いては主人公が悟空じゃないドラゴンボールはドラゴンボールじゃない、と感じるファンも少なくなかったでしょう。(かくいう私もその一人です)

かつて初代マクロスでは一条輝と結ばれる役として正ヒロインの早瀬未沙よりリン・ミンメイを望むファンの声が大きかったらしいですが、結局当時のスタッフは正着通り一条輝と早瀬未紗をゴールインさせる選択をしたと聞きます。

しかし編集部と鳥山氏も当時の『主人公孫悟空復活熱望』の声をやはり無視できなかったんでしょう。

悟空は一日だけ現世に蘇ったことで話の本流に復帰、中盤からは再び主役のような扱いになってしまいます。

さて、この世論の影響からか途中で主役が入れ替わってしまうというパターン。

ファンの声をしっかり反映してファンとしては嬉しい展開である反面、世論の人気主体でストーリーをいじっていくと下手すれば某種死のように話そのものも破綻してしまう危険性があります。

しかし実はここからが評判の悪い魔人ブウ編を私が高く評価している所なんですが、魔人ブウ編が他のパートと明らかに異なるポイントが幾つかあります。

●二人の主人公
上では主役が入れ替わったと書きましたが、実際は完全に悟空主体の展開ではなく悟空は瞬間移動などを駆使して情勢を影からバックアップし、肝心のパワーアップに専念する役は悟飯、と今まで悟空一人でこなしていた主人公の役割を二人に分担した、といった具合です。
つまり実質、主人公が二人存在する展開と見れます。
その結果、

●最強の地位とブウを倒す役の分離
『ドラゴンボール主人公の役割は、一つはボスを倒すこと、もう一つは最強であること』
これが今までのDBの単純かつ不動の公式だったんですが、その形が崩れたのが魔人ブウ編の一番大きなポイントだと思います。

悟飯は界王神の力で一時は魔人ブウをも圧倒するほどの『最強』のパワーを手に入れます。(ただ原作とアニメ版では最強の扱いが若干異なっているそうですが)
しかし実際に元気玉で『魔人ブウを倒す』のは悟空です。

ここで再び整理します。
魔人ブウ編は当初は悟飯が主人公で始まりました。

しかし悟空人気の影響は大きく、途中からは悟空主導で話は進みます。

つまり主人公という視点では
●ドラゴンボールという作品的にはすでにセル編で主人公 は悟飯に交代している→「作品的主人公」
●しかしファンは魔人ブウ編も悟空が主人公の展開を望む声が強かった→「ファン的主人公」
という二つの方向性があります。

そして
●最強の座に座るのは悟飯→「作品的決着」
●魔人ブウを倒すのは悟空→「ファン的決着」
と、セル編で主役の座に座った悟飯を最強の存在として立たせることで長い目で見た上でも作品的にも破綻せず、悟空がブウを倒すことでファンの要望にも最後まで応えきったことで、作品的にもファン的にも見事に収束点を見るのが魔人ブウ編の決着の付け方なのです。

私が魔人ブウ編を高く評価しているのも正にこの「ファンの声にも応えた上で、作品としても破綻していない」点です。

付け加えるなら、最後の決着を付けたのが元気玉であるのも魔人ブウ編だけであり、最強の座が重要だった過剰な能力至上のパターンを最後で覆し、一人一人の力を結集することで地球を救うという文字通り大団円のラストに仕上げているのも特筆すべき点でしょう。


さて、ここまで話の流れを振り返っていきましたが、最後にもう一度まとめてみたいと思います。


~私がドラゴンボールは゛名作゛だと思う理由~
まずは名作とは認められないような批判されていたポイントに対して。

●マジュニア編で終わらせるべきだったという意見に対して
実際にドラゴンボールという作品のテーマにふさわしい展開ならば、マジュニア編よりナメック星編で終わる方がより美しいとも言える。
つまりマジュニア編より後に再度、作品としてピークを迎えることからマジュニア編で無理に切る必要はない。

●過剰なインフレ、能力至上主義に対して
ただ漫然とインフレを繰り返しバトルを追求していた訳ではなく、そこで「孫悟飯」に焦点を移すとラディッツ編以降もインフレの裏に彼の人間としての、強いては新主役としての成長がしっかりと描かれており、それが単純なマンネリ化を防いでいる。
(人間的にある程度成熟してしまっている悟空を常に主役に置き、彼一人がパワーインフレを繰り返していたならば能力だけの(能力至上)漫画としてマンネリを引き起こしていた可能性がある。)

●魔人ブウ編はいらなかったという意見に対して
同じように「孫悟飯」という存在で考えるならばラディッツ編~セル編ラストまでの長く描かれてきた新主役への布石からセル編で終わらせる方が逆に不自然であり、魔人ブウ編にも存在意義がある。

それに加え、それまでの能力至上の流れを魔人ブウを最後は元気玉という方法で倒すことで、『能力だけが全てではない、地球を救う為には一人一人が力を合わすことにこそ意味がある』というラストを伝えることでドラゴンボールがただ能力に支配されただけの漫画ではない、というメッセージになっている。

●長期連載による矛盾点
Dr.スランプやドラゴンボールの後に作られたネコマジンZから見られるように、鳥山氏自体の作風はあくまでギャグ路線であり、緻密に最後まで計算されたリアルな作風ではない為、細かい矛盾は生まれてもおかしくなく、元はギャク漫画だったDBの矛盾点に果たして批判を向けるべきなのか疑問である。

また、本人が本来はマジュニア編で終わらせたかったと漏らしていることからも、連載が作者の意思を超える所で長期に渡ったことにより以降に生まれた矛盾点は許容範囲で収まると考えられる。



以上が指摘されていた批判意見に対する私なりの考え方です。

ドラゴンボール連載時は、やはり単純に憧れていた孫悟空という存在にしか目を向けていなかったせいで気付けなかったんですが、時が経ち、息子の悟飯に注目して読んでいくと、彼が登場したラディッツ編以降はどのパートにも今まで見えてなかったような゛意味゛であり、゛良さ゛が発見できたのが私が「ドラゴンボールはやはり名作だった」と感じた一番の理由です。

特に私もどちらかと言えばマンネリのせいか否定的な目で見ていた最後の魔人ブウ編は、悟空と悟飯という主役扱いの二人の存在に話自体が影響されながらも、最後は二人のキャラを立たせつつ、大団円で締めた終わり方が素晴らしいと思えるようになりました。

終わり良ければ全て良し。

ファンの声に左右されながらも、決してインフレによる能力だけの漫画ではないという裏付けにもなったクライマックスは高い完成度だったと思いますし、それがドラゴンボールという作品全体の底を上げているのかな、と。


勿論思い出がこの作品を美化させている、という点はあるでしょう。

しかしその懐古視点を出来るだけさっ引いて見たとしても、いつ読んでもワクワクさせられてしまう。
そんな漫画はなかなか無いんじゃないでしょうか。

改めて思います。ドラゴンボールは本当に良くできた漫画だな、と。
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手塚賞で鳥山さんが審査員というのにどうにも違和感があったりします。


個人的にDBはどの戦いも秀逸だと思ってるんですよね。
グダグダしてるように見えて、抑えるところは抑えてます。


個人的には、実はブウ編が好きだったりします。サタンスキーからしたらサタンのカッチョええところが随所に見れますし、マーさんの仰るように終わり方が非常に美しかった。

思えば元気玉で決着がついたのは漫画ではあれだけなんですよね。確かに劇場版では元気玉フィニッシュが多いですが、漫画だと実は使った回数自体少なかったりして。
なので原作ファン的には結構新鮮な終わり方でもあるんですよね。そこ一点に関しては変なインフレもありませんでしたし。いきなり悟空がパワーアップとか、そういったのが無いのが良かった。


ブウ編は、敵や味方の強さの上下関係がはっきりして、キャラもそれぞれ成長して、脇キャラも味を出して、そしてラストも後味が良いってのが好印象です。

GTを黒歴史にしたがるのも、ブウ編があまりに気持ちよく終わっていたからなんでしょうね。
それでもGTのラストは非常に評判が良いようで。


ブウ編以外でも、サイヤ人編~ナメック星編にかけての悟飯の成長の描き方は凄く好き。
セル編はインフレが問題視されてて、おまけにここでは「ドラゴンボール」の必要性がほとんど無いのが致命的な気もしますが、仰るように悟飯にスポットを当ててくれたのが良かった。

マンネリを防ぐと言うのもあるでしょうけど、なにより連載当時、幼稚園児だか小学生だかだった私にとって、セル編までの悟飯やブウ編の悟天トランクスの方が親近感が沸きましたしね。少年漫画ということを考えると最善の選択だったとも思えます。


だけど「悟空も病気には勝てない」ってのにはさすがに萎えたかな(´・ω・)
まあサイヤ人も人間だから当然でしょうけど、「だとしたらナッパやベジータとかも病気で死んでくれたりすんのかよ!ならサイヤ人が襲来したときウイルスでも開発して(以下略」と突っ込んでしまいたくなったりして。

その悟空のおかげで宇宙が救われたわけですが、どこか寂しさ感じるのはありましたね。
それでもサタンのような一般人キャラを出して、主人公勢の次元の違いっぷりを再確認させてくれたのは好きだったりします。セル編もやっぱり好き。


なんだかんだで個人的には悟空の少年時代よりアニメの「Z」以降の方が好きだったりします。
通からしたら非難くらいそうですが、それでも敵から味方から魅力があって、戦闘描写も凄く見やすくて面白くて、壮大になっていく物語には私も幼いながらにときめいたものです。

ブルー将軍とか桃白白など魅力的キャラは確かにいましたが、ベクトルが違いすぎますし幼い頃の私にはただのやられ役にしか見えなかったりしてw(時が経つにつれて彼らの魅力も理解できましたが。思えばサタンも最初の頃はかなり嫌いだった)
当時素直に「かっけぇぇぇ!」「すげぇぇええ!」って思えたのは、やはりフリーザだったり、ベジータだったり、セルだったり(若本さんボイスで聞くととんでもねぇ)するわけなんですよね。当時の自分的には。


確かにZ以降のは「別にドラゴンボールである必要が無い」ともいえますが、それでも好きなものは好きですね。

やっぱり良いよドラゴンボール。


最初の頃のドラゴンボールは、単行本のあとがきに「自分でも楽しくなるように、思いつきでストーリーを書いてる」というようなことが書いてあったので、ストーリーが洗練されてないのは目をつぶって見てますねー。
ピッコロ編あたりからは考え始めたみたいですがw

ただ、戦闘力18万だった悟空が、一度くらい死に掛けから復活したくらいでフリーザ最終形態と渡り合ってたのはどうも(ry

色々、テツジさんの面白い考察があるんですが、ボクの場合はそういうストーリー展開より、単純に「パワーアップ」「強い新キャラ」「変身」「合体」の繰り返しで、波乱や事態の変化にやきもき(?)するのが好きだったのかなーと思いますねぇ。

単純な「いつものパワーアップ」のはずなのに、「スーパーサイヤ人」っていうのはなぜか革新的(?)な感動がありましたからねー。

▼白衆天さん
>鳥山さんが手塚賞
難しいところですよね。

氏は一番好きな作品はネコマジン、のようなコメントをしてると聞きますし、そう考えると鳥山漫画の本質はやっぱりギャグなんだなー、と思います。

そういった点で一番鳥山明らしくない漫画がDBだと思うんですが、最初から真面目なバトル漫画ではなく、ギャグが本流にあったからこそあそこまで突き抜けたバトルが描けたのかもしれませんね。

かと言って赤塚賞の審査員だとしてもまた違和感があったりw

やっぱりギャグの印象よりDBの影響が大きすぎるんでしょうね。

>元気玉で決着
考えてみれば従来の流れだと悟空がベジットに変身しブウを圧倒した所で決着させる、という選択肢もあったと思います。

でもその道を選ばず、敢えて最後に元気玉を決め技に持ってきた、ってのがブウ編のミソですよね。

>GTを黒歴史
確かに良い終わり方をした作品にわざわざ後を付け足すのは野暮ってもんですからね。

ただ、私に関してはGTにそこまで興味が沸かなかったのは当時は既にアニメより本誌でのDBに熱中してしまっていたのが一番大きい気がしました。

>セル編
ドラゴンボールの価値もそうですし、ドラゴンボール自体ももはや死者蘇生にしか意味を為さなかったのが痛かったですよね。

ここらへんから悟空からも死んでも後から生き返らせればいい、という冷めた考えが見られましたしドラゴンボールによって「死」の概念が希薄になったのは決して良い傾向じゃなかったと思います。

だからこそズタボロになりながらも頑張ることで「生」を感じさせる悟飯と悟空の兼ね合いはドラマ性があって良かったかな、と。

>幼少の悟飯や悟天トランクス
そうですね~。やっぱりZ以前のドラゴンボールが好きな人は、やっぱり小さい悟空にこそ親近感が沸いていたからでしょうし、後半もいい大人の悟空やベジータが頑張るより、スポットを浴びるべきは少年のサイヤ戦士達だと思います。

>病気で死ぬ悟空
逆を言えば、もはや病気ぐらいでしか倒せないほど悟空が強くなりすぎてしまったんでしょうね(汗

ただ私は悟空がいない荒れ果てた未来、というドラゴンボールでも珍しいほどシリアスな世界(+そこで孤独に戦うトランクス)がちょっと好きだったりするので、その未来を作る上で彼の死は欠かせない要素だったのかな、と思います。

仮に悟空とトランクス以外が全滅させられていたとしても、陽気な悟空が一人いるだけで笑いが絶えないゆる~い世界観になってた気がしますし、そこはやっぱりあの厳しい未来世界を描く上でどうしても「悟空がいない状態」を作り出す必要があったのかな、と。

>一般人との違いで次元の違いを見せる
超人的なバトル漫画だとリアリティを出す上で強さの指標となる一般人を絡ませるシーンって重要ですよね。
体力測定や悟飯の野球のシーンは、ある意味バトルを見るより凄さを実感できるので実はワクワクしたりしますw


特にブウ編のラストは、一般人の代表として描かれたサタンは使われ方が秀逸だったと思います。

一般人でも頑張れるんだ、その為の元気玉なんだ。

サタンが地球をまとめたことで、一般人の重要性、違った意味での強さが描かれていたのが良かったかな~と。

>Z以降
非難も何も、私も実はZ以降の方が面白かったりします(何

それを一番実感したのは久しぶりにドラゴンボールを読み直してみようと思った時、手に取ってしまうのはやっぱりサイヤ人編以降の「Z」のパートなんですよね。

「本格的にバトル漫画として熟成していったのがZ以降だからやっぱり読みたくなるんだな」、と再発見できましたし、ナッパやフリーザのように敵の強さの見せ方や、味方が強くなって登場するタイミングも非常にバトルとして「上手い」んですよね。

ただ、その魅せられるバトルは最初の手塚賞の話じゃないですがやっぱり「鳥山明らしくない作風」なんですよね。

仰るようにブルー将軍や丸太で空を飛ぶ桃白白のようなキャラこそ本来の鳥山作品らしい敵キャラであって、フリーザやナッパのようにおよそ鳥山作品らしくないキャラが話を牽引すると一気にバトルの質も濃くなって読みごたえも出てくる。

作者としては何とも皮肉めいた話だなぁ、と(汗

>Z以降のドラゴンボールの価値
価値が全体的に薄くなった、というのはあると思います。

しかしZ以降唯一ドラゴンボールの価値を再確認できて、ドラゴンボール探しが話の根幹に戻ったのがナメック星編なんですよね。

だからこそ、ドラゴンボール的にはナメック星編で終わっても良かったんじゃないかな~とは今は思うんですが、実際読み直すとあそこで悟空が宇宙を救って星に散る、というラストもやっぱり寂しい気がするのが難しい所です。

まあだからこそ、ナメック星編以降は勢いが衰えるかと思いきや、波はありましたが読者を最後までダレさせなかった鳥山氏には素直に尊敬の念を抱いてしまいます。

例えば絶頂時にスパッと切るスラムダンクなら、ナメック星編でサッパリ終わっていたと思うんですよ。

あんまりマンセーマンセー言うのは好きじゃないんですが、批判しようにも全部が全部改めて面白いと感じてしまうんだからしょうがないですよね(何

DBいいよDB(*´Д`)

(続く)

(編集して続き)

▼サリさん
そうですね、鳥山さんも当初は行き当たりバッタリの漫画で行くつもりだったらしいと聞きます。

ただ、思うんですがキン肉マンもそうですが、最初はギャグ路線で適当に始まった漫画の方が後からバトルに路線変更した際成功する傾向にあるのかな、と。

GS美神もそのパターンですし、やっぱり最初は少しくらいユルい方が読者も入りやすいですし、後半無茶苦茶な設定になっても元はギャグだからこそ無理がないかもしれません。

>戦闘力18万の悟空
最近ウィキペディアで見たんですが、最終形態のフリーザの戦闘力は推定1億2000万なんだそうで(汗

体力復活で強くなり、且つ界王拳で頑張ったとしても競ること自体やはり強引に感じますねw

そもそも超サイヤ人で界王拳を使ったら一体どうなるんだって話ですが(ry

>ストーリーとは別に見た上でのバトルや状況の面白さ

何だかんだ言っても、ドラゴンボールの一番の魅力はやはり変身や修行などのパワーアップ、ドガーン!ドゴーン!といった単純明快なバトル展開にこそあると思います。

ただ、最近特にブリーチという漫画を見てて感じたのは、やっぱりずっと同じようにバトルとインフレを繰り返していくだけではどうしても飽きが来て、肝心のバトルも面白味が欠けてくると思うんですよね。


ドラゴンボールのバトルやバトルで混迷する状況が光ってたのは、バトルを取り巻くキャラそれぞれに魅力があったり、バトルまでのストーリー自体もテンポが良い、などなど、、、バトルとは関係ない要素も光っていたからだ、と最近は思うようになりました。


超サイヤ人も、やはり登場に至るまでの「ベジータの伝説への固執」や「フリーザとサイヤ人の因縁」などの演出やストーリーの流れが良かったからこそ超サイヤ人自体の衝撃が大きかったと思います。

だからこそ、どこかで悟飯にスポットを当てねば新鮮さが足りずあそこまで長期に渡ってバトルの面白さも演出できなかった気がしますし、主役悟飯の誕生は絶対必要であり、今では主役交代はあのタイミングしかなかったんだと思うんです。

そういう意味で、改めて「良くできてる漫画」だと感じた次第でありまっする。

 一週間遅れでコメント(それもコメント返し終わっているのに・・)することをお許し下さい。

 わたしは、ドラゴンボールはアニメ版から入った人間です。
 悟空幼少編を一部飛ばしつつも見て、本格的にハマり始めたのが、2度目の天下一武道会あたりからだったと思います。
 天津飯戦とか、すごい熱かった・・・

 その後、ナメック星までは録画してでも欠かさず楽しんで見ていたのですが、人造人間編あたりからだんだん遠ざかり始めて。
 セルの最後もリアルタイムで見ていなかったし、ブウ編に入ってからは、最初の方しか見ていないので、細くなったブウをあまり知りません。

 MERさんの考察を拝読していると、設定の矛盾・・というのは、せいぜい「RB軍に比べてゲロ軍団強すぎ」くらいしか感じませんでした。ハッちゃんて実は凄いのかなぁと思ったり。
 インフレも・・感じなくはないんですけどね。説明がどうこうと言うより、天津飯・ピッコロ(マジュニア)あたりがどんどん下に落ちていくのが悲しかったです。
 ナッパ戦での天津飯はカッコ良かったと思いますが・・それが最後の活躍かと・・・

 超サイヤ人というのは、良くも悪くも、大きな特徴ですね。
 設定としては、後付とはいえ面白いんですが、あまりにも強すぎて・・・
 ナメック星編で終わっていれば、まさに伝説ということで綺麗に片づいたのでしょうけど、トランクスがフリーザ様を一刀両断したのには萎えました。
 フリーザ様好きなんですよ。掛け値無しの悪で、もの凄い強さで、子どものような残酷さがまた、恐怖を煽る感じで。
 歴代悪役の中でもトップクラスの存在だったのに、そのフリーザ様が一瞬で倒され、倒した人が「協力してください」って・・・
 どんだけ強いの出す気かと。
 この時点で、超サイヤ人になれない仲間は、どんだけ修行してもバトルのレベルに付いてこられないことが確定した気がします。ナメック星編の時、界王星で修行していた面子が可哀想で可哀想で・・・
 これは一つ、DBを見直すきっかけになってしまったかもしれません。フュージョンとか超サイヤ人3とか、その後のさらなるパワーアップも、悲しくなる一方で。
 主人公一人勝ち状態があまり好きじゃないのです。その意味では、わたしはアンチ悟空でありながらDB好きだったという、ちょっと変わった存在かも知れません。
 そのくせ、悟飯が主役になったら、ますますDBから離れてしまったのですが。

 悟飯に主役がシフトしていく・・という解説は、お伺いしてなるほどなーと、今思いました。
 全然気付いていませんでした。悟空がいないとまずいじゃん!という、悟空しか見ていない目線で、ベジータ編・・ナメック星編・・人造人間編・・と見ていた覚えがあります。
 思えば、ラディッツ戦後の悟飯の修行(ピッコロに荒野に放り出されるの)も、その伏線だったのかも、と。
 当時は、悟飯はさすが悟空の息子だなーというのと、冷たいようで実はライバルの息子を優しく気遣っているピッコロステキだなーくらいに感じていました。
 改めて振り返ると、思わぬ発見があるもので。この底知れぬ深さがDBのあの大人気に繋がっていたのでしょうか。

 パターンと言えばパターンかもしれません。
 でも、DBって、パターンを飽きさせない良さがあるんですよね。
 ピッコロに始まり、マジュニア・ベジータ・フリーザ様・セル・魔人ブウと、味のある・・どころではない、非常にキャラが立っていて魅力的な敵役を用意し、修行の内容も毎回変えて、過程もきっちりしっかり面白く読ませる。
 だから、退屈しないのかなぁと、同じパターンを踏襲する他の漫画を読んでいて思います。
 これが実力の差かと。

 それだけに、フュージョンのあのポーズを見た時、「こういうおもしろおかしさが最近なくなってきたなぁ・・」というのを感じて、寂しくなりました。
 それが、DBから離れた契機になっていたり・・・

 ギャグマンガ→バトル漫画が成功する、というか面白い理由の一つは、シリアスさとバカさ加減が上手くブレンドされた時じゃないかと思うのです。
 だから、連載終盤より、ギャグテイストが残っている中盤の方が面白かったり。
 キン肉マンに関しては、最後のスーパーフェニックス戦以外、王子がどっかしらふざけている(笑)し、序盤の試合がギャグ全開で荒唐無稽であったのを中盤まで引きずっていて、無茶な設定で萎える事も多かったり(タッグトーナメントなんかそうでした)ですが。

 ただのガチンコになっちゃうと、なんかつまんなく思います。そういうわたしは、総合格闘技よりプロレスが好きです。
 上で叩いてしまったので弁護もしますが、BLEACHは初期が一番可愛くて大好きでした。
 ルキアも織姫も、最初はヒロインとしてすっごく可愛かったんですけど・・・
 いつの間にやら、人格からコミカルな部分が抜け落っこっちゃって。そしたら、わたしの目にはあまり識別ができなくなって。

 漫画を馬鹿にするつもりは決してありませんが、適度に肩の力を抜くシーンがあるのも、漫画じゃないかなぁと。
 短期集中連載ならともかく、長く付き合う作品には、そういう息抜き要素も大事じゃないかなぁと思ったところで、筆を置きます。

 長文の上に乱文で、失礼致しました。

いえいえ遅くなったとか気になさらなくても結構ですよw
私も漫画話で盛り上がれるのは年中大好きですし色んな方の見解を聞けるのは有り難いのでw


>DBはアニメから入る
私もDBはアニメから入った人間です。
もっと大きく言えば、ジャンプを読み出したキッカケになったもDBですね。
そして私がアニメ→ジャンプに緩やかにシフト移行していった過程で、たまにアニメに現れるジャンプ版と比べてキャラデザ、質が余りにお粗末な回を何度も見ていて、アニメ版からは徐々に気持ちが冷め離れてしまったのを覚えています。

>設定の矛盾
具体的には
①体を再生する際体力も回復するブウがブウ同士の戦いでは何故か体力が減る。
②魔人ブウ編で精神と時の部屋にブウが侵入した際の矛盾
③セルのコアは頭にあるらしいがそれは一度悟空が吹き飛ばしていたのではないか
等が言われてるそうです。

しかし実際この辺の矛盾点はかなり注意深く読んでいかないと気付かないレベルでしょうし、話を読む上では(矛盾の宝庫であるキン肉マンと比較すれば)特に影響はないレベルだと私は考えています。

>ピッコロ、マジュニアが下に落ちていく
純正地球戦士がインフレするバトルに付いていけなかったのはやはり寂しかったですよね。

そう言った点ではナッパ、ベジータ編こそ「皆で地球を救う」というテーマにふさわしい展開だったとも言えますが。。

しかしベジータ編は(ドラゴンボールが地球から消えるので)フリーザ編の導入だったと見るとベジータ編では完結できないのが難しい所なのですが。。

>天津飯
セルを足止めする見せ場もありましたよ!ただ相手を追い詰める程善戦してはいなかったのが悲しいですが(T_T)

>超サイヤ人と悟空という主人公
少年マンガにおいて、キャラ(主人公)の魅力は重要なウェートを占めると思っていますし、悟空の一人勝ち、更には地球戦士を差し置いて強くなっていくサイヤ人勢に魅力を感じることができないのなら、やはり旅の者さんの仰るようにドラゴンボールそのものから離れてしまうのもしょうがないのかもしれません。

>悟飯
私も悟飯という存在に目を向け出したのは実は最近になってからで、それまではドラゴンボールと言えば悟空でしょ、としか感じられない悟空厨で、悟飯が最強に立つセル編などは好きにはなれなかったんです。

しかしある人の「ドラゴンボールで一番好きなキャラは悟飯」という言葉を受けて「いやいや悟空やベジータなら分かるけど悟飯はないだろ?」と感じながらもう一度悟飯に目を向けて読み返してみると。。

旅の者さんの言われるように、ずっと前から成長を描くことで悟飯が好きになるフラグがちゃんと立っているではないか、と驚いたんですね。そして

>飽きさせないパターン
修行→バトルというパターンも、悟空主体の修行の形から、大人になったことで悟空(ピッコロ)は修行の行程を次世代に伝えていく形に変化を付けたことも、単純なパターン化を防ぐ結果になったかと。

>シリアスさとバカさ加減が上手くブレンドされた
おお、、、これは激しく同意です。

思えば、一つ前の世代の「巨人の星」や「あしたのジョー」などが流行ってた頃は(やってることは時にギャグにも見えるのですが)シリアス一辺倒が主流で、とてもじゃないですがドラゴンボールみたいな漫画がヒットする隙間もなかったと思うんです。

しかし、いざ現代であしたのジョーを少年マンガでやったらウケるか、と言われるとやはり「雰囲気が重すぎて」読み辛いでしょうし、幾分かギャグを挟んでいかないと話に読み易さが足りない気がします。

しかし今ジャンプでやったとしても全然ウケるだろうドラゴンボールは、元はギャグが背景にあることから、人が死ぬという重い話も重くなりすぎず、「戦いという凄惨なテーマ」も不思議と「読みやすい」新しい形態のバトル漫画と言えるのかもしれません。

今のジャンプ、サンデー、マガジンの看板バトル漫画の多くもギャグ要素を確実に挟んでますし、そう考えるとキン肉マンやDBは少年バトル漫画の新時代の作風を確立させたのかな~、と思ったり。

>ブリーチ
今では色んな批判を受けてますが、私も実はソウルソサイティ編のブリーチは神漫画と感じてました。

たぶん当時のジャンプでも一、二を争う看板と言える存在だったかと。

そしてブリーチのコミカルな日常シーンは私はかなり高いレベルと思います。(コンの絡みとかは不覚にも爆笑してしまいます)

つまりギャグとしてもハイレベル、バトルとしてもハイレベルな展開が本当は書けるだけの力が作者には眠ってる筈なんですが。。今は仰るように上手く噛み合ってない気がします。(上手く噛み合ってるように見えたのがソウルソサエティ編だった)

個人的には一番の原因は、やはり主人公一護のキャラが問題なのかなーと。
悟空にしろ、ルフィにしろ、キン肉マンにしろ話の筋の主人公には天然とも何とも言えない笑いの性質を内包してましたし、それが結果的に話に明るさを添えていた気がするのですが、一護は変な所で真面目というか、(ギャグ的にダメな所を見せずに)格好良すぎに描かれているのが仇になってる気がします。

私がブリーチという作品を余り好きになれないのもそこなんですよね。
一護より黒一護や更木が出てる話の方が燃えますし、主人公のキャラに余り感情移入できないのが画力が高い作品だけに勿体無いと思います。
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